春節に思う 2011-4-26 15:23:01
春節に思う 春節に思う

長く海外に住むと、住んでいる国の文化に強く魅かれ、その国の文化や歴史に興味を持ち、没頭することがよくあります。一方、海外生活を通して、祖国の良さに気づき、祖国の伝統と文化を大切に思う気持ちが生まれてくることも珍しくありません。
私は中国の中央テレビ局CCTV9の「Culture Express」という番組をよく見ています。世界中のエンターテインメント情報、中国で行われるコンサートや展示会の情報のほかに、中国の土着文化と西洋文化との融和で生まれた新しいトレンドについて紹介もあって、内容が豊富多彩です。また、その番組はよく北京や上海のような大都市のユニークな家、ユニークな家と言っても大体は中国風のインテリアが施こされる家を紹介しています。例えば、家には明清時代のアンティック風の家具を配置し、色使いも赤、黄色、ブルーという非常に対比が鮮明で、中国っぽい色です。それは現在の普通の中国人が求めているモダン的で、豪華なヨーロッパー風の内装とはまったく違う雰囲気のものです。面白いことに、そのような中国古風な内装を好む家の持ち主は大体中国在住の欧米人か、もしくは長い海外生活を経て帰国した中国人です。それはおそらく海外のものや文化との比較によって、東洋趣味の内装の落ち着きというか、ぬくもり感に愛着を持つようになったのでしょう。
私が思うには、本国か海外に関係なく、住んだことのあるところにそれぞれ愛着が持てるのはとても幸せなことで、外国で暮らした経験は生涯において掛替えのない財産です。異文化と接触すること、また自分と違う環境で生まれ育った人と多く接触することで、人間は寛容的になるのではないかと思います。アメリカの大統領とイギリスの首相や女王のスピーチのなかに「Tolerance」(寛容)という単語がよく出てきます。それはおそらくアメリカもイギリスも移民社会で、多くの人種や、異なる宗教を持つ人達が同じ地域で共同生活を営み、社会の平和と安定のために、自身の価値観と違うものに対して寛容な心で受けとめて欲しいという意味での呼びかけでしょう。中国は移民社会ではないが、多くの民族が共住したうえ、都市部と農村の格差、地域の格差、貧富の格差など抱える問題は山ほどあります。「建設和諧社会」(調和の取れた社会を建設する)は中国政府が各階層間での格差を意識し、社会不安を抑えることを狙って打ち出したスローガンで、「和諧社会」の達成には貧富の差を是正したり社会保障を充実にさせたりすることが必要だとよく討論されているが、欧米のように「寛容」についてはほとんどどこでも言及されていません。実は「建設和諧社会」には、国民の寛容という精神も非常に大事ではないかと思います。「寛容」は欧米の民主主義の基本的な価値観だけではなく、思いやりとして「仁」を重要視し、共存を強調する儒教の本来持つ精神でもあります。残念なことに、近代に入ってから、大陸では儒教が全般的に否定され、文化大革命中には、全国の孔子廟が紅衛兵に破壊され、中国二千年の伝統的な社会秩序を支える精神と心のあり方が失ってしまったのです。
違う国の人は違う感性を持っており、人間の感性は生まれ育った環境によって培われるものです。それはいわゆる国民性というものでしょう。外国で長く暮らすと、その国の言葉を何の不自由もなしに操り、その国の日常生活に完全に溶け込んだつもりであっても、その国民のユーモアまで完全に理解できるのは至難の技ではないかと思います。十年以上前に、アメリカのサンホセで友人宅にしばらく泊まったことがあります。その友人はアメリカで長く暮らした中国系の人で、一つの笑い話を話してくれました。新郎新婦の結婚式にかもめが飛んできて、新郎の服に糞を落としたという内容でした。どこが面白いかはまったく分らずに、私は笑わなかったです。友人は、周りのアメリカ人がこの笑い話を聞くと、みんな面白がって大笑いをするけど、どこが面白いかは実は自分も理解できていないと話しました。日本での生活のなかで、私はそのアメリカ人の友人の話したことをいくたびも経験しました。例えば、日本のテレビでお笑い番組を見て、皆が笑うのを聞いて、どこが面白いかと理解できずに不思議に思うことがよくあります。従って、ユーモアに対する感性の違いを乗り越えることは難しく、それはただ時間の問題ではないと実感しています。
一方、外国での生活のなかでいろいろな影響を受けて、多かれ少なかれ固有の感性が変わることもよくあります。中国では春節の大晦日に、各家庭では「春節連歓晩会」を見るのが定番で、餃子を食べること、爆竹や花火を打ち鳴らすことと一緒に欠かせない重要行事の一つです。私も小さい時から家族と一緒にそれを毎年見ていました。日本の新年の「紅白歌合戦」は歌ばかりであるのに対して、中国の「春節連歓晩会」には相声(漫才)と小品(喜劇の寸劇)が多い。しかし、いつかから私は「春節連歓晩会」を見ることをやめました。それは、わざと体に合わない時代遅れの派手な服を着て大げさに振舞い、訛りのついた卑俗な言葉で観客を笑わせようとして、その一生懸命な姿はあまりにも無理に感じて、違和感を覚えるからです。また、日本での暮らしのなか、中国の春節に当たる日はいつも平日で、周りは普段とは変わらない雰囲気なので、その中にいると自分にも祝う気持ちがなくなり、いつかから春節という特別な概念は頭の中から消えてしまいました。
春節の概念がなくても、大晦日の花火の美しさはやはり感動的なものです。今年の大晦日も例年と同じように、夜の十二時に近づいてきたら、窓外からあっちこっち爆竹の音が聞こえ、夜空は花火で埋め尽くされていました。黒い夜の背景とその背景の上で自由にカラフルな稜線を描いている無数の花火の対照はあまりにも美しくて幻想的で、時間がこの一刻で完全に止まったような錯覚さえ覚えました。私は窓辺で次々と打ち上げられた花火の変わりつつある色と形を眺めながら子供の頃の思い出の中に長く耽っていました。子供の頃、周りに爆竹や花火をやっているのはみんな男の子で、女の子の役目は見ることだけだったが、周囲と違い、うちの母は毎年必ずいろいろな形の花火を買ってきてくれました。それから長い歳月が過ぎたが、そのときに導火線の先端に火をつける時のどきどき、うきうきした気分がまた切実によみがえってきました。そして、その思い出の中で親のありがたさを再度に感じて確認しました。
以前見ていたハリウッドの古い映画、シャルル•ボワイエとアイリーン•ダンが主演した「邂逅」のなかで、年を取って、夫を亡くして、小さな島で一人暮らしをしているおばあちゃんが訪ねてきた孫と孫の恋人に、「Life is creating memory」(人生は思い出の創造)と話し、それは心に残るせりふでした。映画の中、そのおばあちゃんは一人暮らしにも関わらず、さびしい思いをせずに、愛する夫との過去の思い出に耽りつつ、満たされた穏やかな心で残りわずかな人生を送っています。年をとってもこのような過ごし方が素敵だなあと映画を見てそう思いました。年とともに、人間は過去の追憶の中で過ごす時間が段々長くなっていくかもしれません。
前も書いたように、どこで暮らしていてもその土地を好きになり、愛着が持てるのが幸せなことです。従って、寛容な気持ちを忘れずにそれぞれの土地と人間の良いところを見つけて、将来思い出すと良い思い出になれるような日々を今から作りましょう。

       

筆者 プロフィール
呂 毅(Lu Yi)

  北京師範大学外国語学部日本語科卒業
東京外国語大学地域文化研究コース博士前期課程入学卒業
現在NGF(米国ゴルフ財団) WORLD Academy&Club in China マネージャー
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